2016年02月14日

「日記は自分に対する経験報告書」にスゴく納得!【「知的生産の技術」】

「知的生産の技術」

梅棹忠夫:著

岩波新書

梅棹忠夫氏によって書かれたこの本は情報カード(京大式カード)や

「こざね法」という文章術などを紹介したことでも有名で、
知的生産術に関する古典的名著です。

今から50年近く前の1969年に出版され、
長く読み継がれているロングセラーでも
ありますね。

そんな名著に対して今さら私ごときが、
あーだ、こーだというコトもないのだけど、

この本の中に書かれている日記についての件がすごく納得できたので、
ちょっと思うところを書いてみようと思います。

■なぜ日記は長続きしないのか?

日記といえば三日坊主!・・・ですよね〜?
日記を書き始めたのはいいけど、途中で放りだしてしまった経験がある方も
多いのではないでしょうか?

なぜ日記は長続きしないのか?

どういうわけか、日記には心のなかのことをかくものだという、
とほうもない迷信が、ひろくゆきわたっているようにおもわれる。

平安時代の「紫式部日記」や「更級日記」など、日本には有名な文学的な日記が
残されていて、それが日記というのは文学的なもの!というふうに誤解されて
いるのではないか?
と、著者の梅棹氏が書かれているのを読んだ時に思わず
「その通り!」と膝を打ってしまいました。

昔、昔のそのまた昔。
私がまだ小学校高学年か中学生だった頃に
何を思ったのか、(自主的に)日記を書き始めたことがありました。

ノートに向かって一生懸命に自分は何を考えているのか、何を感じているのか?
そういう心の奥底・・・といっても私のことですから相当に底は浅いですが、
を書き綴っていたのですが、当然のことながら長続きするわけもなく
確か数週間で放りだした記憶があります。

だいたい、自分の心に向き合うだけでもシンドイのに、
さらに心の中の中の曖昧模糊とした感情を(ムリヤリ)言語化するのだから
文学者ならともかく、一般の人がそれを日々続けるなんて
苦行以外のナニモノでもない!と思うのですよ。

日記が長続きしない原因って、意志が強いとか弱いとかの話しじゃなくて、
『心の中を言語化する、そしてそれを長期間続ける』というハードルの高さに
あるんじゃないかな?って思うのです。

■日記は、自分自身のための、業務報告なのである

日記は長続きしないもの、面倒くさいもの、だという世間の常識(?)に対する
一つのアンサーとして一時期、「4行日記」っていうものがちょくちょくネットで
話題になったことがありましたね。

「4行日記」を始めてみる | シゴタノ!

どういうものかというと、

1.その日の仕事からトピックを1つ取り上げ【事実】、
2.その中で気づいたことを記し【気づき】、
3.その気づきを活かすとしたら今後どう行動すべきかを明文化し【教訓】、
4.その教訓を実践している「ありたい自分」の姿を描く【宣言】、

この4行を日々、記録していくのです。
フォーマットというか書くべきことが決まっていて、
それがしかも、たった4行でいいのだから、かなりハードルは低い!・・・って
思っちゃうんですよね。。

私、この「4行日記」も数週間で放りだしました。。(^^;;

どんな気付きがあったのか?
そして今後はどう行動すべきか?
そんなことを一々考えるのがしんどかったのですよ。

断言しますが、

私のように意志薄弱で、頭も悪い人が
心の中を言語化するとか、出来事に対して意味付けを考えるなんてことを
最初からやろうとするのはムリです!

で・・・

「知的生産の技術」の話しに戻りますが、
その中に、こんなコトが書かれています。

日記というのは、要するに日づけ順の経験の記録のことであって、
その経験が内的なものであろうと外的なものであろうと、
それは問題ではない。

梅棹氏がいうには、日記というのは日付け順の自分の経験の記録であって
言ってみれば、『日記は、自分自身のための、業務報告』なのだと。

その日の出来事を淡々と記録する。何か心に思うことがあれば
それはそれで簡潔に記録しておく。

私、これを読んでなんか・・・心がスキっとしましたよ。

実は私・・・(これから、ちょっと自慢話を書きますよっと・笑)
2014年6月からほぼ毎日、日記を書き続けているんですね。
(もう足掛け3年目です!)

Mr.三日坊主と異名を取ったこの私が何故、2年以上も日記を続けられたかというと
とにかく自分の感情とか思考とかいったものを排除して
ただひたすらに、その日にあったコト(だけ)を書いてたからだと思うんです。

何が書いてあったか、だけを書くわけですから
余計な頭を使わなくても書けるんですよ(笑)

で、

時々、嬉しかった!とか、ムカついた!っていう強めの感情が
湧き上がった時には、ちょこっとそれも書いておく。

だから、この本で「(日記は)日づけ順の経験の記録」だと書いてあるのを読んで
あ〜、私のようなやり方でも良いんだぁ〜!って何か安心(?)したんです。

■日記は時間を異にした「自分」という「他人」との文通である

「自分」というものは、時間とともに、たちまち「他人」になってしまうものである。

日記というものは、時間を異にした「自分」という「他人」との
文通である、と
かんがえておいたほうがよい。

自分が書いた日記って誰が読むのかというと・・・

まぁ、たいていの場合は書いた本人が「後で」読み返すわけですよね。

でも、梅棹氏が書かれているように「後で」読み返す自分は、書いた時の自分とは
ちょっと違う他人でもあるんですよね。

私も時々、以前の日記を読み返すことがあるのですが、
「な〜にやってんだよ」とか、「おぉ、頑張ってるじゃん」とかって思う。
過去の自分に対してまるで他人を見てるかのように客観的に自分を見ることができるのです。

そして、過去の自分を振り返りながら、
もっと楽しいコト、嬉しいコトがいっぱい日記に書けるように
がんばれ!今の自分!って感じになるんですよ。

で、

私は今年から「5年連用日記」に日記を書き綴っているのですが、
途中で挫折しない限り、5年後の自分がまたこの日の日記を
読み返すことになるので、
毎日、日記を書きながら5年後に自分はどんな思いで
この日記を読み返すのか?

「あの頃は頑張ってたなぁ」としょぼくれた自分になってしまっていないか?
「あの時があったから今の自分があるんだ!」と言える自分になっているのか?

ちょっとキザな言い方ですけど、
5年後の自分に向けてエールを送るような気持ちで
日々、日記を書き綴っているのです。

振り向いた昨日に恥じないように
仰ぎ見る明日に恥じないように

「ローリング30」吉田拓郎

(おしまい)

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posted by penguin-oyaji at 22:07 | Comment(0) | 読書(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする