2014年03月20日

【小説】「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」村上春樹:著(注意:ネタバレあり!)

 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」村上春樹:著新潮文庫(上・下)

20代の頃、熱心に村上春樹さんの作品を読んでいたのだけど、「ダンス・ダンス・ダンス」を最後にまるで憑き物が落ちたかのように手に取ることがなくなってしまった。

だから、「海辺のカフカ」も「1Q84」も最新刊の「色彩を持たない〜」も読んでない。。

そんなワケで、久しぶりに「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読み返してみたのも、単なる気まぐれでしかないのだけど、でも、やっぱりこの作品は良い!

少なくとも、初期の傑作であるのは間違いないと思う。

(注意:以下、ネタバレあります!)

Amazonの内容紹介

高い壁に囲まれ、外界との接触がまるでない街で、そこに住む一角獣たちの頭骨から夢を読んで暮らす〈僕〉の物語、〔世界の終り〕。老科学者により意識の核に或る思考回路を組み込まれた〈私〉が、その回路に隠された秘密を巡って活躍する〔ハードボイルド・ワンダーランド〕。静寂な幻想世界と波瀾万丈の冒険活劇の二つの物語が同時進行して織りなす、村上春樹の不思議の国。

◆パラレルワールド?仮想現実?

上記のAmazonの内容紹介にもあるように、この物語の舞台は2つ。

計算士という架空の職業で働く『私』が自分の意識の核に埋め込まれてしまった謎を巡って、ナニモノかに追われながらも、謎が解き明かされるまでを描いた【ハードボイルド・ワンダーランド】と呼ばれる世界。

自分の影を持たず、心もない人たちが住む街にやって来た『僕』が一角獣の頭骨から古い夢を読んで暮らす【世界の終わり】と呼ばれる世界。

【ハードボイルド・ワンダーランド】が現代の東京を舞台にした冒険活劇的な物語であるのに対して、【世界の終わり】は、何処にあるのかも分からない幻想的な街で静謐とした寓話的な物語。

このように二つの世界はまったく対照的な物語なのですが、それが交互に描かれていて、やがて一つに結びつくというストーリー展開は、読んでいて引き込まれてしまいます。

ネタバレですが・・・

ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ

【世界の終わり】という幻想的な世界は、実は【ハードボイルド・ワンダーランド】の『私』が自分の頭の中に創り出したものなのです。

つまり、現実世界の『私』と仮想世界の『僕』は同一人物というわけです。

◆心のない世界

戦いや憎しみや欲望がないということはつまりその逆のものがないということでもある。それは喜びであり、至福であり、愛情だ。絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。絶望のない至福なんてものはどこにもない。

現実世界の『私』が創り出した仮想現実、【世界の終わり】とは、どういう世界かというと・・・

自身の影を切り離されてしまうことで、記憶も心も失ってしまった人たちが住んでいる(ただし、切り離された影が生きている間は心は残っているし、記憶も影の中に在りつづける)

心がないから、戦いも憎しみも欲望もなく街の人々は安穏とした日々を過ごしている。

街は高い壁に囲まれていて、その街からは抜け出すことが出来ず、何処へも行けない。

・・・かなり端折ってますが、だいたいこんな感じの世界なのです。

実は・・・!

私もちょっと前までは、心のない世界というものに憧れていました。心があるから、苦しんだり悲しんだりするわけですからそれだったら、いっそうのこと心なんて消えてしまえばいい!なんか、そんなふうに思っていたんですよね。。

でもね。

いくら頑張っても無私にも無欲にもなれないんですよ。。否応なく心は付いてまわってくる。

話しがそれましたが・・・

物語の最後で『僕』は自分の影だけを街から脱出させて、自分はそのまま街に残ることを選択します。

それは、心を持ち続けたまま(影は生きているからね)、苦しみながらも、何処にも通じてない行き場のない、自分が創り出した街で生きていく決意をした、ということです。

やっぱり『僕』も、無私無欲にはなれなかったんだなぁ、と。

◆自分が創り出した世界の中で生きる

僕は自分の勝手に作り出した人々や世界をあとに放りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。

何と言うか・・・【世界の終わり】は現実世界の『私』が頭の中に作り出した仮想世界だと書きましたが、実は私たちも同じように仮想世界の中で生きているのと同じではないかと。。

例えば・・・

私の友人のAさん。確かに、Aさんは私が勝手に作り出したワケではありません。

だけど・・・私の知っているAさんと、別の友人B君が知っているAさんでは、同じAさんだけど、きっと違う人物なんですよ。

同じものを食べたり、同じ景色を見ても人によってその印象が違うのと同じで、付き合う人も、人によってその人物像って同じじゃないですよね。

人は自分の主観という眼鏡を通してモノや人を見ますから、同じ世界に生きていても、自分が見ている世界は自分の心が作り出した世界・・・なのではないかと思うのです。

だから、この特殊でちょっと変わった【世界の終わり】は実は誰の心の中にも多かれ少なかれ存在するんじゃないんですかね?

でも、そんな自分が作り出した世界の中で自分だけが心をなくして、安穏と生きていくことなんて出来ない。

だったら、苦しみや哀しみから逃げ出さずに、自分の心と向き合えよ!

・・・そんなメッセージが聞こえたような気がしたのです。

◇◆◇◆◇◆

社会学部なのに、卒論で村上春樹の文芸評論を書いて卒業した私の友人が昔、この作品のことを「哀しい物語だね」と言っていたのを今でも覚えています。

「なんで、そう思うの?」と私が聞くと、「だって、現実世界から切り離されて自分の意識の中に閉じ込められちゃうんだよ!」と。

確かに自分の意思とは関係なく、現実世界から切り離されておまけに過去の記憶もなくして自分の頭の中の仮想世界に閉じ込められてしまうのは哀しいことだろう。

だけど!20年以上の月日が経ち再読してみて思うのは、

何処へも通じてない、何処へも行けないこの世の果てのような世界の終わりの街で心を残したまま生きていく決意の方がもっと哀しいのではないかと。

哀しみも、苦しみも、争いもない代わりに喜びや希望、愛のない世界は、やっぱり哀しい世界なのだ。

    



posted by penguin-oyaji at 20:40 | Comment(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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