2014年03月20日

【小説】「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」村上春樹:著(注意:ネタバレあり!)

 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」村上春樹:著新潮文庫(上・下)

20代の頃、熱心に村上春樹さんの作品を読んでいたのだけど、「ダンス・ダンス・ダンス」を最後にまるで憑き物が落ちたかのように手に取ることがなくなってしまった。

だから、「海辺のカフカ」も「1Q84」も最新刊の「色彩を持たない〜」も読んでない。。

そんなワケで、久しぶりに「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読み返してみたのも、単なる気まぐれでしかないのだけど、でも、やっぱりこの作品は良い!

少なくとも、初期の傑作であるのは間違いないと思う。

(注意:以下、ネタバレあります!)

Amazonの内容紹介

高い壁に囲まれ、外界との接触がまるでない街で、そこに住む一角獣たちの頭骨から夢を読んで暮らす〈僕〉の物語、〔世界の終り〕。老科学者により意識の核に或る思考回路を組み込まれた〈私〉が、その回路に隠された秘密を巡って活躍する〔ハードボイルド・ワンダーランド〕。静寂な幻想世界と波瀾万丈の冒険活劇の二つの物語が同時進行して織りなす、村上春樹の不思議の国。

◆パラレルワールド?仮想現実?

上記のAmazonの内容紹介にもあるように、この物語の舞台は2つ。

計算士という架空の職業で働く『私』が自分の意識の核に埋め込まれてしまった謎を巡って、ナニモノかに追われながらも、謎が解き明かされるまでを描いた【ハードボイルド・ワンダーランド】と呼ばれる世界。

自分の影を持たず、心もない人たちが住む街にやって来た『僕』が一角獣の頭骨から古い夢を読んで暮らす【世界の終わり】と呼ばれる世界。

【ハードボイルド・ワンダーランド】が現代の東京を舞台にした冒険活劇的な物語であるのに対して、【世界の終わり】は、何処にあるのかも分からない幻想的な街で静謐とした寓話的な物語。

このように二つの世界はまったく対照的な物語なのですが、それが交互に描かれていて、やがて一つに結びつくというストーリー展開は、読んでいて引き込まれてしまいます。

ネタバレですが・・・

ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ

【世界の終わり】という幻想的な世界は、実は【ハードボイルド・ワンダーランド】の『私』が自分の頭の中に創り出したものなのです。

つまり、現実世界の『私』と仮想世界の『僕』は同一人物というわけです。

◆心のない世界

戦いや憎しみや欲望がないということはつまりその逆のものがないということでもある。それは喜びであり、至福であり、愛情だ。絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。絶望のない至福なんてものはどこにもない。

現実世界の『私』が創り出した仮想現実、【世界の終わり】とは、どういう世界かというと・・・

自身の影を切り離されてしまうことで、記憶も心も失ってしまった人たちが住んでいる(ただし、切り離された影が生きている間は心は残っているし、記憶も影の中に在りつづける)

心がないから、戦いも憎しみも欲望もなく街の人々は安穏とした日々を過ごしている。

街は高い壁に囲まれていて、その街からは抜け出すことが出来ず、何処へも行けない。

・・・かなり端折ってますが、だいたいこんな感じの世界なのです。

実は・・・!

私もちょっと前までは、心のない世界というものに憧れていました。心があるから、苦しんだり悲しんだりするわけですからそれだったら、いっそうのこと心なんて消えてしまえばいい!なんか、そんなふうに思っていたんですよね。。

でもね。

いくら頑張っても無私にも無欲にもなれないんですよ。。否応なく心は付いてまわってくる。

話しがそれましたが・・・

物語の最後で『僕』は自分の影だけを街から脱出させて、自分はそのまま街に残ることを選択します。

それは、心を持ち続けたまま(影は生きているからね)、苦しみながらも、何処にも通じてない行き場のない、自分が創り出した街で生きていく決意をした、ということです。

やっぱり『僕』も、無私無欲にはなれなかったんだなぁ、と。

◆自分が創り出した世界の中で生きる

僕は自分の勝手に作り出した人々や世界をあとに放りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。

何と言うか・・・【世界の終わり】は現実世界の『私』が頭の中に作り出した仮想世界だと書きましたが、実は私たちも同じように仮想世界の中で生きているのと同じではないかと。。

例えば・・・

私の友人のAさん。確かに、Aさんは私が勝手に作り出したワケではありません。

だけど・・・私の知っているAさんと、別の友人B君が知っているAさんでは、同じAさんだけど、きっと違う人物なんですよ。

同じものを食べたり、同じ景色を見ても人によってその印象が違うのと同じで、付き合う人も、人によってその人物像って同じじゃないですよね。

人は自分の主観という眼鏡を通してモノや人を見ますから、同じ世界に生きていても、自分が見ている世界は自分の心が作り出した世界・・・なのではないかと思うのです。

だから、この特殊でちょっと変わった【世界の終わり】は実は誰の心の中にも多かれ少なかれ存在するんじゃないんですかね?

でも、そんな自分が作り出した世界の中で自分だけが心をなくして、安穏と生きていくことなんて出来ない。

だったら、苦しみや哀しみから逃げ出さずに、自分の心と向き合えよ!

・・・そんなメッセージが聞こえたような気がしたのです。

◇◆◇◆◇◆

社会学部なのに、卒論で村上春樹の文芸評論を書いて卒業した私の友人が昔、この作品のことを「哀しい物語だね」と言っていたのを今でも覚えています。

「なんで、そう思うの?」と私が聞くと、「だって、現実世界から切り離されて自分の意識の中に閉じ込められちゃうんだよ!」と。

確かに自分の意思とは関係なく、現実世界から切り離されておまけに過去の記憶もなくして自分の頭の中の仮想世界に閉じ込められてしまうのは哀しいことだろう。

だけど!20年以上の月日が経ち再読してみて思うのは、

何処へも通じてない、何処へも行けないこの世の果てのような世界の終わりの街で心を残したまま生きていく決意の方がもっと哀しいのではないかと。

哀しみも、苦しみも、争いもない代わりに喜びや希望、愛のない世界は、やっぱり哀しい世界なのだ。

    

posted by penguin-oyaji at 20:40 | Comment(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月15日

【自己啓発】「人生計画の立て方」本多静六:著・・・余生の「余」とは

人生計画の立て方 (実業之日本社文庫) 

「人生計画の立て方」

本多静六:著

実業之日本社

今年はいわゆる自己啓発本を買って読むのはもうやめようと思っていたんですよね〜

大筋においてどの本も書いてあるコトは似たり寄ったりだし、そもそも私のようにいつまで経っても玄関で履物を揃えられなかったり、部屋の掃除もまともにやらないような、そんな人間が自己啓発本を読んでも意味が無いというか・・・

それよりも今まで読んだ本を再読したり、本に書いてあるコトを一つでも二つでも実行できるようにした方が良いんじゃないかって、そんなふうに思っていたんです。

・・・が!

ある日、Kindleの日替わりセールでこの本が「99円」で売られているのを見て、ついポチッとしてしまったのです。。(Kindleって怖い!)

でも、この本は読んで大正解でした!

著者の本多静六氏は東京の日比谷公園や福岡の大濠公園などなどそれこそ日本全国の多くの公園を手掛け、「公園の父」と呼ばれる林学博士にして、造園家として活躍された方だそうです。

そして、この本が最初に刊行されたのは昭和27年(1952年)というから、今から60年以上も前の本なんですね。

確かに、一部の内容は今の時代にはそぐわないのではないか?と思われるようなところもありますが、人生に於ける大切なことについて書かれている内容は60年の時を経ても色褪せず、光り輝くものがあるように感じました。

Amazonの内容紹介

設計図なくしては、いかに老練な建築家も立派な家造りができないと同様に、まず「人生計画」を樹てることなくして、完全な意義ある人生を築き上げることは難しい―偉大な先人が後世に生きる私たちに贈った処世訓。

◆余生の「余」って・・・?

七十歳で一応任務をつとめ果たしたように考えるのは僭越でもあり、また軽率でもある。まさしく人生への冒涜である。ああ、われ大いに誤りての感が、ここでむくむくと沸き起こったのである。

人生は、生ある限り、これすべて、向上への過程でなくてはならない。社会奉仕への努力でなくてはならない。もし老人のゆえをもって、安穏怠情な生活を送ろうとするならば、それは取りも直さず人生の退歩を意味するものでなければならない。

「余生」っていう言葉があるじゃないですか。辞書によると次のように書いてあります。

盛りの時期を過ぎた残りの生涯。残された人生。(デジタル大辞泉)

サラリーマンなら60歳とか65歳で定年を迎えた、その後の人生、まぁ、そんな意味合いで使われる言葉ですよね。

ただ・・・余生の「余」ってなんだろう?って最近すごく思うんですよ。

仮に80歳までの人生だったとして、65歳からは15年の「余生」があるわけですよね。

働き盛りと言われる35歳から50歳までも15年。

同じ人生の15年なのに、「余」りの人生って何かおかしくない?っていうふうに思っていたんですよ、最近なんとなく・・・

そんな私のモヤモヤした思いに、一つの答えをくれたのが、この本だったというワケです。

著者が最初に立てた人生計画では70歳を過ぎたら、いわゆる隠居生活を送ることになっていて、実際、静岡県の伊東に隠遁して自給自足の生活をされていたのですが、そこで、自分に対してこんな問いをたてるんです。

「ただ老人たるのゆえをもって、世間にかまわず自分だけが安楽生活を営むことがゆるされるかどうか」

で・・・

再び120歳までの人生計画を立てなおすんですよ!

人生の後半に於いてもなお、目標を掲げ努力を絶やさないようにした著者の姿に私はなんか「グサっ!」と刺さるものを感じました。

そして、この本を読んで改めて余生の「余」について考えてみたんですね、私。

たぶん・・・人が亡くなった時に「あの人の余生は・・・」と語られるべきもので、自分が生きている間に「私の余生は・・・」と自らが語るべき言葉ではないのではないかと・・・そんなふうに思うんですよね。

『人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い』

「山月記」を書いた中島敦さんの言葉ですが、何事かをなそうと思う人にとっては、きっと「余生」なんていうものは無いのだろうと思うのです。

◆本当に恐れなければいけないもの

百二十を目標に樹てた人生計画は、百二十まで生きなければ未完成というものではない。八十でも九十でも、いや六十、七十までしか生きないのでも、立派にこれを生かし遺憾なく充実を期することができる。いつどこで打ち切りになっても悔いるものがない。人生即努力、努力即幸福、これは人寿の長短にかかわりなく絶対だ。

「いつどこで打ち切りになっても悔いるものがない」これを読んだ時に、松下幸之助さんのこの言葉を思い出しました。

「死ぬことよりも、死の準備がないことを恐れたほうがいい」

死の準備というのは、毎日を一生懸命に精一杯に生きる、ということなのでしょうが、その前提として自分の人生の目標があった方が良いと思うんですよね。

いつもこのブログを読んで下さっている友人がよくブログやツイッターに「毎日を笑顔で幸せに」って書き込んでいるのですが、それも人生の計画であり、目標だよなぁ〜って思うんです。

そう。「人生計画」なんて堅苦しく考えるが苦手なら自分はどう生きたいのか?それだけでも決めておけば日々の行動は、自分が望む方向へと進んで行くような気がするんですよ。

それと・・・

「いつどこで打ち切りになっても悔いるものがない」この言葉は、人生は目標達成ではなく、そこに至るプロセスこそが大切だということを教えてくれているように思うのです。

どんなに精緻な計画を立てても、夢や目標が大きければ大きいほどそれが達成できるかどうかは人力が及ばない「運」に左右されてしまうことがある。

けれど、目標や夢に向かって日々の努力を精一杯に積んでいけば、「いつどこで打ち切りになっても悔いる」ことなく、旅立っていける。そんなことを著者は私たちに伝えてくれたのではないかと感じました。

◆◇◆◇◆◇

いや〜、本当はもっとたくさん書きたいコトがあるのですが、調子に乗って書いているとまたムダに長い超大作になってしまいそうなので、このへんで。。(^^;;

本の中には、学校選びとか結婚とかについても書かれているのですが、私としては、やはり年老いた後の生き方について書かれているところが妙に心に刺さりまくりました。

それは・・・もう私がオヤジで若くないからなのかもしれんが、これを読んで下さっている若い世代に一言申し述べておく。

老後なんて、まだまだ先のコトと思っているかも知れんがあっちゅーまだからね!(ヒヒヒ)

〆の言葉がこれかい?!と思われるかも知れないが、これでいいのだ!

posted by penguin-oyaji at 23:05 | Comment(0) | 自己啓発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月12日

【読み比べ】思考の入口について(最終回)

あなたを天才にするスマートノート

「あなたを天才にする スマートノート」

岡田斗司夫:著

文藝春秋

ゼロ秒思考  頭がよくなる世界一シンプルなトレーニング

「ゼロ秒思考 頭がよくなる世界一シンプルなトレーニング」

赤羽雄二:著

ダイヤモンド社 

さて、さて、「前編」「後編」でも書き切れず、ついに3回目です。今回こそは「最終回」となりますよーに!

過去2回のエントリーでは、面白いことを自分の頭で考えられるようになるためには、先ずは自分の感じたこと、閃いたことをとにかく紙に書きだせ!・・・というようなことを書いてきました。

では、なんで「考える」ために「書く」ことが必要なのか・・・?

◆考える→書く→話す

昔、新人研修を担当していた時のこと。

「考える」→「書く」→「話す」という話しをよくしていました。

どーいうことかというと。。

普段の日常会話のほとんどは、頭に浮かんだことをそのまま口に出して話していますよね。

つまり、「考える」→「話す」です。

でも、これだと話し手によってうまく話しが整理されないままに言葉に出してしまうことになります。

そのため話しがあっちこっちに飛んでしまい、聞いている方は「何が言いたいんだろう?」と思ってしまうことも少なくないような気がします。

昔、お世話になった上司がまさに!そういう人でした。

朝礼で訓話を話すのを聞いていると、Aの話しをしていたかと思うと、脈絡なくBの話しが始まり、そのうちCに話題が移って、またAに戻る。

で、最終的に何が言いたかったのか全く分からず!!

おまけに、話しが長いんですよね〜

だから、話しを聞いているのがツラくて、ツラくて(^^;

でも!

「考える」と「話す」の間に「書く」というワンクッションを挟むことで、

  • 自分の思考や感情が整理できる
  • 問題や論点を客観的に捉えることが出来るようになる
  • 頭の中のジャグリング(堂々巡り)が解消される

このような効果があり、結果として分かりやすく話すことができますよ、ということを新人研修で話していたのです。

つまり!

「書く」ということは、自分の感じたことや考えを人に伝えるためには、必須のワンステップというコトです。

◆言語化をめぐる冒険

思考と言語の関係について、強く意識してもらいたい。

「思考は言葉によってなされる」ということ。

そして「感情も言葉にできる」ということだ。そのうえで、頭に浮かぶイメージ、感覚を言葉にしてみよう。

「ゼロ秒思考」

まず「感じる」、次に「感じた理由を考える。私たちは感じているだけで実は考えていない場合が多い。考えを言語化していません。

そのためにも自分の感覚や感情を日本語にする訓練をしてみてください。

「スマートノート」

よく私もこのブログなどで「うまく言葉にできないのだけど・・・」と書いたりもしますが、自分の思いをうまく言葉にのせられないというコトはきっと誰にでもあるのではないかと。

言葉にできない、というのは、好きな人に対する自分の思いを言葉にして、その人に伝えたい。

でも、何といったらいいのか分からない。

・・・それと似てる感じでしょうか。

それでも!

自分の感情、思い、考えを人に伝えるためには何とかして「言葉」にしないといけない。

好きな人に対する言いようのない切ない思いを抱えながらも「好きです!」と言い切る。

それがつまり、言語化だと思うんですよね〜(違うかな?)

えっと・・・告白の話しではなく思考の話しでしたね。。

「思考は言葉によってなされる」という言葉を引用しましたが、まさにその通りだと思うんですよ。

考えるためには言葉を使わなきゃいけない。

でも、頭の中にあるあいだは言葉にならないモヤモヤした気分や感情のままであることが多い。

だから「書く」ことによって強制的に言葉にする。

そうやって言語化することが、考えることの第一歩だと思うのです。

つまり、言語化こそが思考の入口だということです。

◆思考は肉体訓練である

イメージや感覚を言葉にしようとする回数を重ねていくと、それほど抵抗なく形にできるようになる。

言葉にすることへの躊躇がなくなってくる。すっと書けるようになる。

「ゼロ秒思考」

論理を身につけたり、論理的に話したり考えたりするのに「入門書を読む」ほど的外れなことはない。

論理は肉体訓練です。スポーツと同じ。

(中略)

毎日、書く。

これ以上の論理入門はありません。

「スマートノート」

「思考」というと何やら知的な雰囲気が漂ってきますなぁ。

でも、思考というのは頭の中だけで完結するものではなく、結局は、ペンを握って紙に書く、あるいはキーボードを叩いて、文字を入力する。

そういう筋肉を動かす作業が必要であり、それを何回も何回も繰り返すことが必要!ということですよね。

ワタクシゴトですが、このブログ。

何だかんだで6年くらい続けていますが、最初、勢いだけでブログを開設してしまったものの、何をどうやって書いたら分からないし、言葉にするのもしどろもどろでした。

まぁ、しどろもどろというのは今も変わりませんが・・・

それでも最初の頃に比べれば、だいぶ書くことに慣れてきたかと。

(慣れ過ぎて、ムダな長文ブログを連発してますが・・・)

そういう意味ではブログは言語化のための良い練習だと思うし、あるいは、ブログでなくても日記や読書ノートなどを書くことも思考の肉体訓練になりますよね。

とにかく、書く!

・・・本当にそう思うなら、もっとブログの更新を増やせ!

というツッコミは要りません!(キリッ!

◆まとめ

「ゼロ秒思考」と「スマートノート」

方向性も書いている内容も違う本ですが、少なくとも「思考の入口」について書かれているコトは面白いくらいに同じことが書かれています。

つまり、頭の中を紙に書きだし言語化すること。

そして、それを何度も何度も繰り返すことで、だんだんと言語化がスムーズにできるようになるというコト。

まぁ、その後どうやって思考を進めるかというと深掘りしたり、他のことと関連付けをしてみたりすることが必要なのですが、そのコトについては長くなるので、今回はスルーということで。

ただね。一つだけ思うんですよ。

自分で考えたつもりでも、実は常識にのっかったものだったり、何処かの誰かの言ったことをなぞっていることが多いのじゃないかと。

なぜか・・・?

それは多分、心のどこかで「正解」を求めているから。。

取りあえず、こう言っておけばOK

こう書いておけば文句もあるまい。

もっとイヤらしいシタゴコロがあると、こういう言葉を使えば、共感して貰えるのではないかとか。

他の人は分からないけど、少なくとも自分に限って言えば、そんなふうに無意識のうちに安全圏に逃げ込んでいたんじゃないか?って思うんですよね〜

「思考の入口」ということで、あれこれ(ムダに長く)書いてきましたが、ある意味では、そういう安全圏に逃げ込まない勇気を持つことも

入口において必要なことではないかと思う次第。

最後に、そんな自分に自戒を込めてこの言葉を引用して終わりたいと思います。

考える、ということは「間違っててもかまわないから、自分なりの結論を持つ」ということです。

間違うことを恐れて、頭のいい人の意見ばかり聞いては、

頭は良くなりません。

「スマートノート」

ペンギンオヤジのB読書!: 思考の入口(前編)

◆どうやって考えたらいいの?

◆脳は勝手に考える

◆思考のジャグリング

ペンギンオヤジのB読書!: 思考の入口(後編)

◆とにかく書き出せ!

◆どうやって頭の中の全てを記録するか?

 (1)常にメモできるものを携帯せよ!

 (2)迷わずに書く

 (3)カッコウつけずに書く

タグ:岡田斗司夫
posted by penguin-oyaji at 16:39 | Comment(0) | 読書(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月07日

【読み比べ】思考の入口について(後編)

あなたを天才にするスマートノート
「あなたを天才にするスマートノート」
岡田斗司夫:著
文藝春秋

ゼロ秒思考  頭がよくなる世界一シンプルなトレーニング
「ゼロ秒思考 頭がよくなる世界一シンプルなトレーニング」
赤羽雄二:著
ダイヤモンド社

さて、「前編」からのつづきです。

前回は・・・

・どうしたらちゃんと自分の頭で面白いことが考えられるようになるのか?

・人は考えているのではなく、感じているだけのことが多い

・そもそも深く考える方法が分かっていない

・しかし、脳は[勝手に]いろいろなコトを感じたり考えている

・その結果、頭の中で思考がジャグリングしてワケが分からなくなる

・だったら、感じたり考えていることを紙に書きだせばいいじゃん!

と、こんなようなことを書きました。

とにかく書き出せ!

考えてること全て書き留めたい

「スマートノート・電子版プラス」

そこで、お勧めなのは考えをすべて書き留めることだ。

考えのステップ、頭に浮かんだことを書き留めると、

堂々巡りがほぼなくなる。

「ゼロ秒思考」

「前編」でも書いたけど、人って割と絶えず色々なコトを感じたり、考えたりしていると思うんですよね。

まぁ、たいていは取るに足らないどーでもいいコトが多いのだけど、でも時々、自分でも「はっ!」とするような良いコトを思いついたりもする。

・・・でも、そういうアイデアや閃きって泡みたいなもので、浮かんできても、すぐにはじけて消えてしまうんですよね。。

おまけに、後から思い出そうとしても「さて、何だったっけ?」となることが多いのだ。

で、どーするかというと2冊の中で共通して書かれいるのは『考えていることを全て書き留めよ!』という点。

いやいや、これってハードル高いですよね〜

どうやって頭の中の全てを記録するか?

古来、三上(馬上、枕上、厠上)は文章を書くとき、アイデアを練る時としてよいと言われているが、まさにそのとおりなのだ。

「ゼロ秒思考」

この『三上』の話しはけっこう色々な本に書かれているので、ご存知の方も多いかと。

要は思いつき、アイデアがうまれやすい場所として次の3箇所を挙げているのです。

(ちなみに、宗の時代の学者、欧陽修が言ったといわれてます)

・馬上→馬の背の上、つまり乗り物に乗っている時

・枕上(ちんじょう)→枕に頭を乗せている時、つまり寝ている時

・厠上(しじょう)→厠、つまりトイレに入っている時

1)常にメモできるものを携帯せよ!

トイレや寝ている時に浮かんでくるアイデアや閃きを書き留めるためには、やはりメモ帳を常に肌身離さず持ち歩け!ってことになると思うのですが・・・

手許にメモがなければ、最近ではスマートフォンのボイスレコーダー・アプリを使って、直接、声で録音してしまうという手もありますね。

ちなみに私はiPhoneのメモ帳アプリ・Evernoteに記録するようにしてます。

・・・が!

考えていることや思い付きをメモするのに「壁」となるのは、メモ帳を持ち歩く、というような道具の問題ではなく、むしろ次のような心理的な問題の方が大きいのではないかと思うのです。

(2)迷わずに書く

メモには具体的に何を書くのか。

思いついたこと、気になること、疑問点、次にやるべきこと、自分の成長課題、腹が立って許せないことなど、頭に浮かんだことは何でも書く。頭に浮かんだそのまま、フレーズを書き留める。

「ゼロ秒思考」

前に脳は自分の意思とは関係なく[勝手に]色々なコトを考える。と書きました。

だから「あ〜腹へった〜」とか、「眠いなぁ〜、少しサボっちゃおうかなぁ」などと、まぁ、割とどーでもいいコトも考えるわけで、

だから、いくら心で思ったこと全部を書き留めろ!と言ったってこんなコトまでメモする必要ないよなぁ〜って思いますよね。

確かに!私もメモする必要ないじゃん!って思ってました。

だけどね・・・

これはメモしなくてもいいや

こんなことメモするのはバカらしい

そんなふうに流し続けていると、「おっ!これは!」という閃きが浮かんできても、「メモするの後でいいや」とか、「わ、わ、いいこと思いついたけどどーすればいいんだ!(汗)」なんてコトになってしまうのではないかと思うようになったんですよ。

たぶん・・・ですけど、メモって「習慣」だと思うんですよね。

よく「メモ魔」と言われるような人っているじゃないですか。

何でもかんでもメモしちゃう人。

そういう人って、何か気付いたり、思いついたらメモをするという習慣が身に付いていると思うんです。

「習慣」を身に付けるには・・・そうです。

ひたすら反復するしかないですよね。

だから最初のうちは、メモをする、しないという判断を入れずに、とにかく思いついたら何でもメモする!って決めてしまった方が良いのではないかと。

それでも、こんなのメモするに値しない!って思うならツイッターでつぶやいちゃえば良いんですよ(笑)

3)カッコウつけずに書く

書き留める際に言葉を選ぼうとしすぎると、思考が止まってしまう。

それよりは、浮かんだ言葉をあまり深く考えず、次々に書き留めていくほうがずっといい。

「ゼロ秒思考」

メモやノートを書く時に、誰に見せるわけでもないのに、なぜか言葉を選んで、カッコウつけようとしたりしてませんか?

私はかなりカッコウつけてます (^^;

つーか、頭が固いんでしょうね、きっと。>私

「Aさんは、●●すべきである」なんて書いてしまうのですが、頭の中に浮かんだ時には、「Aさんが、やりゃいいんだよ!」とかって思っているわけです。

だったら、そのまま「やりゃいいんだよ!」って書けばいいし、それに、そういう言葉で残しておいた方が、後で見返した時にその時の自分の感情まで再現できるような気がします。

◇◆◇◆◇◆◇◆

また、ムダに長い長編になってきましたね・・・(汗)

本当は今回の「後編」できれいにまとまる筈だったんですけどね〜

おかしいなぁ〜

でも!

「グラスの底に顔があってもいいじゃないか!」と言ったのは岡本太郎氏ですが、

「後編」の後に最終回があってもいいじゃないか!と思うわけですよ。

・・・というわけで、まだまだ続くのじゃ!

posted by penguin-oyaji at 21:28 | Comment(0) | 読書(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月06日

【読み比べ】思考の入口について(前編)

Don't think ,Feel !(考えるな、感じろ!)
と、言ったのはブルース・リーだったか。。

映画とかを観ていないので、この言葉がどういうシーンで使われ、真意は何なのか?とか知らないのだけど、先日、久しぶりに読み返した本の中にこんなコトが書いてあった。

私たちは感じているだけで、実は考えていない場合が多い

「あなたを天才にするスマートノート」(岡田斗司夫:著)

考えているのではなく、感じているだけ・・・
なんか、そうかもなぁ〜と妙に共感してしまいました。

自分が以前に書いたブログを読み返すと、
(1)本に書いてあるコトに対して、ただ反射的に思ったことを書いている
(2)何処かの誰かが書いたり言ったりした借りモノの言葉で書いている
   →つまり、自分の言葉で書いていない!
・・・なんか、そんな記事が多いんですよね〜

そして致命的なのが、(3)正しいコトを書いてまとめてる。。
正しいコトというのはですね、
・前向きに元気に生きる
・人には優しく親切にする
・目標を持って生きる
・ご飯は残さない(←ちょっと違うか。。)
こういう当たり前のことですね。

同じく岡田斗司夫さんの「スマートノート」の中にこんな言葉が!

人は面白くなければ、正しい意見でも聞いてくれないのです。

そうなのだ!
フツーの人(つまり、私)が当たり前のことを言ったり書いたりしても「だからどうした?」ってなるのがオチ。。

では、どうしたらちゃんと自分の頭で面白いことが
考えられるようになるのか?!
以下の2冊の中からその答えを探って、まとめてみました。
(長い長い前フリじゃ!)

あなたを天才にするスマートノート
「あなたを天才にするスマートノート」
岡田斗司夫:著
文藝春秋

ゼロ秒思考  頭がよくなる世界一シンプルなトレーニング

「ゼロ秒思考 頭がよくなる世界一シンプルなトレーニング」
赤羽雄二:著
ダイヤモンド社

◆どうやって考えたらいいの?

そもそも、大半の人は、どうすれば「深く考える」ことが
できるのかがよくわかっていない。

「0秒思考」

よく職場で先輩や上司から「もっと、よく考えろ」とかって言われたりしませんか?
私はよく言われました。

「もっとよく考えろ!」「深く考えろ!」とか言われたって、どうしたらいいのさ!(逆ギレ)という人が大半というのは納得。

だって書店に行くと、「論理思考の技術」とか「アイデアはこうやって出せ!」みたいな思考術の本がそれこそ山のように売られているのが何よりの証拠かと(笑)

◆脳は勝手に考える
瞑想の経験がある人は分かると思うのですが、目を閉じている時に頭の中で何も考えない・・・ということになっていますが、実際はさまざまな雑念が湧いてきます。

「考えない!考えない!」と思えば思うほど、心配事であったり、何かのアイデアだったり、時にはネガティブな感情だったり・・・
そういう雑念が次から次へと浮かんでくるんですよね。

私、思うのですが・・・

人の脳って自分の意思とは関係なく色々なコトを勝手に考えたりするんですよね。
脳が暴走するというか。。

「深く考える」方法は分からないにしても、少なくとも脳は勝手に色々なコトを考えだしているのではないか?ということです。

◆思考のジャグリング

「沈思黙考」という言葉があるが、ひたすら考えを巡らせ、ああでもないこうでもないと考えるだけで思考が進むことはあまりない。多くの場合、時間の浪費になる。

「ゼロ秒思考」

人間の悩みの最大ポイントは「同じ悩みをぐるぐる繰り返す」ことです。この繰り返し、つまりジャグリングさえやめれば実はかなり楽になります。

「スマートノート」

ジャグリングって、これのことです。

ジャグリング
大道芸人さんがモノをぐるぐるまわす芸のこと。

私が思うに・・・

人の脳は[勝手に]次から次へと考えを巡らせるから、放っておくと頭の中が色々な考えでジャグリング状態になってしまうのではないかと。

で・・・

ジャグリングを繰り返しているうちに自分でも何がなんだか分からなくなってきて、「もう考えるの止めた!」ってなるんですよね〜

じゃぁ、どーするか?

そうです!正解です!

とにかく頭の中を紙に書きだせ!
ということになるんですね。

でも、その話しは次回「後編」につづくのだ!

タグ:岡田斗司夫
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2014年03月01日

「ココロノート」で描く5年後の未来(番外編)

寝る前10分 人生を変える ココロノート: 5年後、必要とされる人材になる!

「人生を変えるココロノート」

河合薫:著

東洋経済新報社

前編」「後編」と書き続けてきて、今日は「番外編」なのだ。

実は・・・

この本を読み終えてから、ずっとモヤモヤと心の中で気になっていたことがありました。

それは、一言でいえば「心のダークサイドと向き合う」ということです。

最低な自分、最悪な出来事

昨日書いた「バイオリズムライン」を見直して、

「最低だった」ときと、

「最高だった」ときの、

具体的なエピソードを1ページまるまる使ってできるだけ具体的に書き出してください。

そのときのあなたの素直な感情も、できる限り書き加えましょう。

(P90)

「ココロノート」の課題の中で、こんな問いかけがあります。

過去の最低だった時のことを思い出せ!と。

正直、心がヒリヒリしましたよ。

だって、誰にだって「封印」した過去ってあるでしょ。

でも、頑張ってノート2ページも使って書きました。

その時に、一緒にノートに書いたメモ書き。

・無理やりフタをして閉じ込めていた感情が一気にあふれ出てきた

・当時のことを客観的に捉えることができた

それが例え何年も前のコトでも、当時の心の痛みみたいなものがまだちゃんと残っていて、ノートを書きながらヒリヒリした痛みも感じました。

でもね。

ノートに書き終えて、読み返してみた時に

(本当は、読み返すのもイヤだったけど、一応、頑張って読み返してみた)、

ふと心が軽くなって、当時のことを客観的に見ることができたのです。

私の不都合な真実

潜在意識には、あなた自身が驚くような気持ちや自分でも認めたくないような感情が潜んでいることがしばしばあります。

でも、そんな自分も、自分です。否定せず、ありのままを受け入れてください。(P54)

日常生活の中で、ふとした瞬間に心に湧き上がってくる「黒い感情」。

家族のことであったり、友人や知り合いのことであったり、あるいは、社会に向けてであったり・・・

とてもブログには書けない!

そんな「黒い感情」に自分でも、ハッとして慌てて打ち消そうとする。。

そんなこと、考えちゃいけない!って。

こんなこと誰にでもあるんですかねぇ〜?

まぁ、人のことはともかく、

自分にはそういう「黒い感情」が心のどこかにあるっていうのは、確かなこと。。

「そんな自分も、自分です。否定せず、ありのままを受け入れてください」

この本を読んで、

この文章を読んで、

どうやって、そんな自分にって不都合な真実と向き合えばいいのか、それがとても気になっていました。

「許す」ということ

自己受容とは、自分の良いところも悪いところもしっかりと見つめ、普通であれば目をつむりたくなるような情けなく不甲斐ない自分を受け入れる行為です。

自己受容は人間のポジティブな心理的機能の一つです。

逆境を乗り越えるために必要な心の動きです。

自分と向き合えて初めて、人は前に進む”真の強さ”を持てます

(P34)

黒い感情が湧き上がってきた時に、慌ててそれを打ち消す。

これって、自分と向き合えてないですよね、たぶん・・

でね・・・

どうやって、そんな自分と向き合えばいいのか?ということを何日も何日も考えていたんですよ、私。

で・・・こう思いました。

「私は聖人君子じゃない!」

何日も何日も考えて出した結論が、これです。。

でも、いいんです!

だって、聖人君子じゃないんだから、私は。

(ある意味、開き直りですよね、これって)

ブログにも書けないような黒いことを思う自分。

もう何年も前のことにヒリヒリした痛みを感じる情けない自分。

逃げ出したくなるようなことが目の前にたくさんある。。

そんな自分を「許そう」と思いました。

だって、聖人君子じゃないんだから。

うまく言葉にできないのですが・・・

この場合の「許す」って、たぶん「認める」ということですよね。

そうして、もう一つ思いました。

最悪な出来事に登場する過去に私の心に傷をつけていった人たち、今も私の心にチクチクと痛みを与える人たち・・・

そういう人も、「許そう」って。

いや、カッコウつけ過ぎですね。

正確には「許す」努力をしてみようと。

だって、そんな相手も聖人君子じゃないのだから。

なんか、そんなふうに考えたら、心が少し軽くなったように感じました。

これが「自己受容」ということなのでしょうか?

◆最後に・・・

「前編」の中で、こんなコトを書きました。

ココロノートを書いたことで、自分が(ほんの少し)変わった

変わった、というのは、この本から色々な気づきが得られた、というのはもちろんなのですが、何より、ノートを書くことが楽しくなりました♪

「ココロノート」を書くようになってから突発的に日記を書くようになり、奇跡的にもう1ヶ月以上も継続できています。

それに、ずっとサボっていた読書ノートも手書きで復活させました。

やはり「前編」の中で引用しましたが、

新たな考えや価値観が呼び覚まされます。書くことで、ココロの声が深化する。(P44)

これが、本当に実感できてるんですよ。

ノートに文字を書き連ねていると、ふと全く別の記憶と結びついて新たな考えが浮かんだり思わぬアイデアが浮かんできたり、「あぁ、俺ってこんなことを思っていたんだ」とか、そんなことが次々とおきるので、楽しくて仕方ない!

◇◆◇◆◇◆

「ココロノート」を書いたからといって、夢のような5年後が待っているわけでも、保証されるわけではない。

けれど・・・

これから先、何か迷ったとき、逆境に苦しんだとき、「ココロノート」を見返したり、ノートに自分の気持ちを書き込んでみたりすれば、そこにまた、新たな気づきやアイデアが生まれて、必ずノートが自分の見方になってくれると思う。

「ココロノート」は一度書いて終わりではなく、未来に向けて育てながら一緒に旅する相棒だから。

おしまい。

「前編」「後編」「番外編」と長々とお付き合いくださって、ありがとうございました!

【前編】 

ペンギンオヤジのB読書!: 「ココロノート」で描く5年後の未来(前編)

◆良い意味で「未完成の本」

◆「手書き」でノートを書く

◆夢の達成率

◆ノートに日記を書いたら、原因不明の腰痛が治った!

【後編】 

ペンギンオヤジのB読書!: 「ココロノート」で描く5年後の未来(後編)

◆「何を書いたか」ではなく「何を感じたか」

◆人は他者によって生かされている

◆ココロノートで5年後に必要とされる人材になれるのか?!

posted by penguin-oyaji at 20:47 | Comment(2) | 自己啓発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする